流祖 山田宗徧

都で育ち、池坊華道、志野流香道も極めた山田宗徧。
抽象的な美を生み出し、メディア感覚にも優れた彫刻家だった。

1627年、京都長徳寺に生まれます。僧名は周覚。6歳で茶の道を志し、遠州流の茶を学びました。本願寺で勉学を修め(※後の琢如上人は当時のご学友)18歳で宗旦に入門。26歳で宗旦より皆伝を授かり、同時に四方釜をいただき四方庵と名乗ります。


宗徧の人となり

武家の血を受け継ぐ周覚は、高い教養と武士としての資質、そして「ヌルキを嫌う美意識の高さ」を備えていました。また、武道で鍛えた丹田の稽古があったからこそ、現在の宗徧流の美しい点前があります。

師匠に仕える宗徧

宗旦の門弟となった周覚は、茶の稽古だけではなく、路地の掃除や井戸での水汲み、薪割りなどの力仕事まで、心身を捧げて宗旦に仕えました。

宗徧の独立

宗旦は、仏教の教養があり、武家の教育をうけていた周覚をことのほか信頼し、利休伝来の秘宝をことごとく授けました。心身を捧げて仕えた周覚と師匠宗旦の間には、純一無雑な魂の結びつきが生まれ、稀有な師弟愛によって、宗旦は周覚に印可を授けました。また、周覚は師の宗旦から利休の茶的伝の証を授かります。これが「お許し」のはじまりです。

宗徧流の歴史—侘び茶一筋350年

山田宗徧は、京都二本松の東本願寺派長徳寺願寺(京都府京都市上京区菊屋255)の第五世で、僧職にあり、仁科周覚(にしなしゅうがく)が本名でした。お茶が好きで、六歳の頃から茶道を学んだと言い伝えられており、十八歳で70歳に近い利休の孫宗旦の門に入り、本格的な茶の修行を始めました。入門して八年後、宗徧は、茶の湯をもって世に立つ決心をしました。生家の長徳寺を去り、母方の姓である「山田」を名乗って、洛西鳴滝の三寶寺に草庵を造営、茶の師匠としての第一歩を踏み出しました。この独立に際して師の宗旦から、利休伝来の四方釜を贈られ、禅の師である大徳寺の翠巌(すいがん)和尚からは、釜にちなんで「四方庵(しほうあん)」という額が与えられました。この時から宗徧は「四方庵宗徧」と名乗り、宗旦を通して学んだ利休侘び数寄の普及を始めたのです。

宗徧が独立したことを知ると、学友であった本願寺の琢如上人は、日蓮宗山内であるにもかかわらず、宗徧を訪ねることにしました。宗旦は「大事の火箸」と南蛮の水壺をもって駆けつけ、水屋で宗徧の世話をし、茶会終了後には手に手を取って喜んだという、茶道史に輝く子弟愛の「四方庵の逸話」が生まれました。

その後、宗徧は宗旦の推挙で、三州吉田(愛知県豊橋)の城主であり、江戸幕府の老中であった小笠原忠知に仕えるために新天地に旅立ちます。

忠知は江戸の茶の湯の華美な傾向に飽きたらず、宗旦の侘び茶に心を寄せ、宗旦を城内に迎えることを懇請しました。しかし八十歳近い高齢だった宗旦は、それを固辞し、代わりに愛弟子の宗徧を推薦したのです。このとき宗旦は宗徧に、利休古来の古渓和尚筆による「不審庵」 の額と、玉舟和尚の筆による「不審」の二文字に、偈(げ)を宗旦自らが書いた軸と、自筆の「今日庵」の書を与えました。そして、宗徧に「不審庵」「今日庵」の庵号を両方とも使うことを許したのです。

宗徧は小笠原家の茶頭(さどう)として、小笠原家の四代に渡り、四十三年仕える間に、茶道史上初の、初学者向けテキスト「茶道要録」「茶道便蒙抄」「利休茶道具図絵」を刊行し、誰でも茶の湯を楽しめるようにするという、利休侘び茶のビジョンを実現します。

小笠原家の国替えを機に、宗徧は、娘婿の二世宗引に跡を譲り、70を超えてなお故郷である京の都を目指さず、新興都市江戸に出て、茶道を広げる挑戦をします。

利休四世としての宗徧の「不審庵」を伝えていく山田家の血が絶えないよう、小笠原家は、江戸三十間掘の材木商である岡村宗伯を山田家分家として「時習軒」を立てさせました。今日庵を譲られた鳥居宗逸や岡村など豪商や町民が、おごらず官位も持たず市中に茶を広める宗徧に共鳴し江戸での活動を支えたのでした。

宗徧の名前が世の中に広まるのは、赤穂浪士討ち入りの晩に茶会を催していたことです。同じ宗旦門として、また同じ三河にいた縁で、江戸に出た宗徧は、吉良様の邸の近く、本所に住まいを定めました。そして、そこに赤穂浪士の一人、大高源吾が身分を偽って入門し、茶会の日を聞き出し、討ち入りが決行されました。現在でも家元では吉良、浅野両家の菩提を弔う義士茶会が行われています。

宗徧の個性は、都市の洗練、自由の追求、軽やかさ、身体性、鋭さ、挑戦、カジュアル、丁寧、引き算の美、飾らないという点にあります。それが、空間、道具、動き、もてなしの間として伝わり、利休正流とも言われ、三河、江戸、唐津、長岡などで親しまれ、今日に続いています。

二代以降、唐津、大阪と経て、十代で鎌倉を本拠として現代にいたります。 墓は浅草願竜寺願寺(東京都台東区西浅草1-2-16)にあり、宗徧の茶室の遺構「淇篆庵」が 明願寺(愛知県岡崎市伊賀町西郷中114)にあります。

小笠原家の縁で、唐津近松寺の矢野老師が総長である時代に、京都五山別格大本山南禅寺で献茶が始まり、宗有が不識庵、10代宗徧が窮心亭を寄進し、毎年4月に流祖忌を行っています。また、伊勢皇大神宮でも10月に献茶を行い、松下幸之助翁寄進の茶室で席を持っています。その他、鎌倉鶴岡八幡宮、川崎大師平間寺、靖国神社で家元献茶が行われています。

当代家元


茶道宗徧流不審庵
11世家元 幽々斎 山田宗徧

上智大学外国語学部で葡萄語学科に在学中、21歳で父の逝去に伴い11代目の家元になりました。 昭和41年生まれの自分と同世代がほぼいない世界で明日があるのだろうか?と考え、自分の世代にとっての、自分の感覚でできる茶道の模索を始めました。 そうすると、大勢の方から茶道観についての指南を受けることになり、宗徧流はこういうものです、家元はこうあるべきです、茶道はこうでなくてはいけません、 たくさん聞かされました。大事な糧になりましたが、一つして納得できるものはありませんでした。知識、技術、経験がないから、 自分の茶道観がたわごとと思われることに気づきました。

流儀の先生たちは孫のような私が言っている戯言に従い、全力で支えてくれて、父、伯母、祖父など先人の遺徳の有難さに気づかされていきました。

30歳で結婚し、ロンドンのアートとリンクする茶も模索し、トップビジネスマンの会も始め、32歳で、遊び友だちだった桐島ローランドと、 これからはこういう茶の場だよね、と訴えかける「宗徧風」という写真集をつくり、大反響がありました。 しかし、その場をつくるための方法論を指導するカリキュラムがなかったため、尻すぼみに終わってしまいました。そして、視点を変え、自分の茶道観を大事にするよりも、茶人であるよりも、家元としてどうあるべきかを考えました。 社中の様子茶道という伝統文化がいまでも続いているのは「家元制度」のおかげだからと気づいたからです。家元制度の根幹は許状制度であり、許状は点前であり、その点前を使いこなすことに全力を投入し、私独自の指導法を完成しました。

30年の茶道人生で至った、侘びとは“雑念が削ぎ落とされ、感覚が研ぎ澄まされ、素の自分になり、自分をみつめ、自然と一体となること”“常に理想に向かい努力し続ける謙虚な姿勢 → 可能性を信じる”“人、道具、食など、素材の持ち味を引き出す”という考えを更に深め、先人が命をかけて伝えてきてくれた伝統を絶やさないようにできればと考えています。


家元夫人 山田宗里

平成8年に山田宗徧氏と結婚、家元夫人、三児の母として宗家を支え、特別講師として特に美しい動きや所作の指導に当たるなど、流儀の発展に尽力している。平成13年より子供茶道稽古「名月会」を主宰、二歳から大学生に茶道の所作の他、心身の幹をつくり、感性を磨く稽古を提供している。また英語、ドイツ語で海外からの来客を接待。著書に「心の内より きれい数寄」(扶桑社)。平成21年~鎌倉市教育委員。

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