宗徧流の歴史—侘び茶一筋350年
山田宗徧は、京都二本松の東本願寺派長徳寺願寺(京都府京都市上京区菊屋255)の第五世で、僧職にあり、仁科周覚(にしなしゅうがく)が本名でした。お茶が好きで、六歳の頃から茶道を学んだと言い伝えられており、十八歳で70歳に近い利休の孫宗旦の門に入り、本格的な茶の修行を始めました。入門して八年後、宗徧は、茶の湯をもって世に立つ決心をしました。生家の長徳寺を去り、母方の姓である「山田」を名乗って、洛西鳴滝の三寶寺に草庵を造営、茶の師匠としての第一歩を踏み出しました。この独立に際して師の宗旦から、利休伝来の四方釜を贈られ、禅の師である大徳寺の翠巌(すいがん)和尚からは、釜にちなんで「四方庵(しほうあん)」という額が与えられました。この時から宗徧は「四方庵宗徧」と名乗り、宗旦を通して学んだ利休侘び数寄の普及を始めたのです。
宗徧が独立したことを知ると、学友であった本願寺の琢如上人は、日蓮宗山内であるにもかかわらず、宗徧を訪ねることにしました。宗旦は「大事の火箸」と南蛮の水壺をもって駆けつけ、水屋で宗徧の世話をし、茶会終了後には手に手を取って喜んだという、茶道史に輝く子弟愛の「四方庵の逸話」が生まれました。
その後、宗徧は宗旦の推挙で、三州吉田(愛知県豊橋)の城主であり、江戸幕府の老中であった小笠原忠知に仕えるために新天地に旅立ちます。
忠知は江戸の茶の湯の華美な傾向に飽きたらず、宗旦の侘び茶に心を寄せ、宗旦を城内に迎えることを懇請しました。しかし八十歳近い高齢だった宗旦は、それを固辞し、代わりに愛弟子の宗徧を推薦したのです。このとき宗旦は宗徧に、利休古来の古渓和尚筆による「不審庵」 の額と、玉舟和尚の筆による「不審」の二文字に、偈(げ)を宗旦自らが書いた軸と、自筆の「今日庵」の書を与えました。そして、宗徧に「不審庵」「今日庵」の庵号を両方とも使うことを許したのです。
宗徧は小笠原家の茶頭(さどう)として、小笠原家の四代に渡り、四十三年仕える間に、茶道史上初の、初学者向けテキスト「茶道要録」「茶道便蒙抄」「利休茶道具図絵」を刊行し、誰でも茶の湯を楽しめるようにするという、利休侘び茶のビジョンを実現します。
小笠原家の国替えを機に、宗徧は、娘婿の二世宗引に跡を譲り、70を超えてなお故郷である京の都を目指さず、新興都市江戸に出て、茶道を広げる挑戦をします。
利休四世としての宗徧の「不審庵」を伝えていく山田家の血が絶えないよう、小笠原家は、江戸三十間掘の材木商である岡村宗伯を山田家分家として「時習軒」を立てさせました。今日庵を譲られた鳥居宗逸や岡村など豪商や町民が、おごらず官位も持たず市中に茶を広める宗徧に共鳴し江戸での活動を支えたのでした。
宗徧の名前が世の中に広まるのは、赤穂浪士討ち入りの晩に茶会を催していたことです。同じ宗旦門として、また同じ三河にいた縁で、江戸に出た宗徧は、吉良様の邸の近く、本所に住まいを定めました。そして、そこに赤穂浪士の一人、大高源吾が身分を偽って入門し、茶会の日を聞き出し、討ち入りが決行されました。現在でも家元では吉良、浅野両家の菩提を弔う義士茶会が行われています。
宗徧の個性は、都市の洗練、自由の追求、軽やかさ、身体性、鋭さ、挑戦、カジュアル、丁寧、引き算の美、飾らないという点にあります。それが、空間、道具、動き、もてなしの間として伝わり、利休正流とも言われ、三河、江戸、唐津、長岡などで親しまれ、今日に続いています。
二代以降、唐津、大阪と経て、十代で鎌倉を本拠として現代にいたります。 墓は浅草願竜寺願寺(東京都台東区西浅草1-2-16)にあり、宗徧の茶室の遺構「淇篆庵」が 明願寺(愛知県岡崎市伊賀町西郷中114)にあります。
小笠原家の縁で、唐津近松寺の矢野老師が総長である時代に、京都五山別格大本山南禅寺で献茶が始まり、宗有が不識庵、10代宗徧が窮心亭を寄進し、毎年4月に流祖忌を行っています。また、伊勢皇大神宮でも10月に献茶を行い、松下幸之助翁寄進の茶室で席を持っています。その他、鎌倉鶴岡八幡宮、川崎大師平間寺、靖国神社で家元献茶が行われています。